夢から覚めたあとの夢の中にいる人【思考を超える力】 [新スピリチュアル論]
※応援クリックよろしくお願いします>最近は毎朝の坐禅が定着しています。
>そこにあるのは、ただあるがままに在るという、何一つ特別ではない境地ですが
>しかし終わったあと、油断するとまたすぐに、お馴染みのあの流れがやってきます。
>いまここにあること以外の、あれやこれやの思考のストーリーです。
彼の文章を読むと何か『無心、無我の境地』が至上で高レベルな状態、思考が浮かんでいる時が低レベルで望ましく無い状態と言っている様な印象です。
>そのストーリーは、あっちに行ったりこっちに行ったりしながらも、決して途切れることなく続いていきます。
>でも通常は、自分が思考の流れのストーリーの中に浸かっていることに気づきません。
>そのストーリーが現実だと思い込んでしまいます。
そもそも思考している状態が低レベルで『無心、無我の境地』の状態が高レベルって誰が決めたのでしょうね?
もし彼がそのように思っているのならば、それこそが「彼の世界観、ストーリー、夢の中」です。
思考というものは頭の中で言葉が流れているただの状態です。それ以上でもそれ以下でもありません。
『無心、無我の境地』というのも同様に、ただの状態です。
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彼は自分の「頭の中の言葉」を捉えてブログ記事にして講演会やリトリート、アカデミー等の各商品を宣伝したりしていますので思考の恩恵を大変に受けていますよね(笑)?
スポーツ選手等が『無心、無我の境地』でプレイに集中して流れに乗っている時は『ゾーン』ともいって良い状態とされています。
あなたもそういった状態になれた事が有ると想います。
しかしそのスポーツ選手もそれに至るまでに効果的なトレーニング方法や、戦術戦略等の「思考」を凝らしています。
つまり『無心、無我の境地』いう思考を越える力は、思考と言う『土台』があって初めて成り立つモノです。
実際、日常生活の中でそんなに年がら年中、『無心、無我の境地』になんか成れませんよね?考えなければいけない事が山ほど有りますし。
また成ろうとする必要も有りません。
『無心、無我の境地』を追い求めようとしてかえって逃げられてしまった事は、有りませんでしたか?
それは思考を超える力『無心、無我の境地』というものは思考を凝らして行動していく中で自然と訪れるものだからです。
あなたの普段の何気無い『思考』も思考を超えた『無心、無我の境地』も、同等の価値が有ります。
『無心、無我の境地』 も単なる一つの状態、変化に過ぎないモノです。
彼は「そこにあるのは、ただあるがままに在るという何一つ特別ではない境地」と言いながら『一つの状態に過ぎないもの』を矢鱈と特別で高級なものに表現したがります。
『無心、無我の境地』 を真実、それ以外の『思考』を「ストーリー」といって格差を付けたがるのは彼がそうやって読者をアカデミーに引き込もうとする意図が有るからとは想いませんか?
『思考』は【エゴ】そのものでもあります。
瞑想や禅では無くあなたが日常生活を過ごす中で【エゴに気付く】
そして【エゴ】から自由になる
そうしていくと自然とあなたに【思考を超える力】がいつの間にか訪れます。
【思考を超える力】は思考をしているあなたと常に共に在りますよ☆
P.S
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